北朝鮮はなぜこうなった? ミサイルを撃つ理由は? 歴史的経緯からわかりやすく解説

北朝鮮はなぜこうなった?ミサイルを撃つ理由は?

無闇にミサイルを発射し、国連の勧告を無視した核兵器の開発や、国際世論を敵に回す言動を改めようとしない北朝鮮ですが、なぜこのような国になってしまったのでしょうか?なんのためにミサイル発射などの行為に及ぶのでしょうか?

不可解な隣国・北朝鮮について、このページでは歴史的な経緯を紐解いてわかりやすく解説したいと思います。

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そもそも北朝鮮と韓国はなぜ分断したのか?

まず、北朝鮮という国を知るためには、そもそもなぜ朝鮮半島が北と南に別れ、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)と韓国(大韓民国)とに分断されているのか、その理由について知る必要があります。

では、簡単に見てみましょう。

ことの始まりは、第二次世界大戦・太平洋戦争の末期のことでした。

1945年8月6日、9日に広島、長崎に相次いで原爆が投下され、日本は既にひん死の状態となっていた時のことです。

ソ連は、それまで日本との間で不可侵条約を結んでいたために、連合国に名を連ねていたものの日本とは戦争状態にはありませんでしたが、ソ連は突如これを破棄して日本に宣戦布告し、それまで日本の領土であった満州から朝鮮半島北部までを攻撃しはじめました。

この裏切り行為で、一気に軍を南進させたソ連に、朝鮮半島の北部までを侵略され、その時点で日本はポツダム宣言を受諾し、降伏することとなってしまったわけです。

これにより、日本が戦後処理で朝鮮半島の領有権を完全に失った後は、北緯38度線より北をソ連が、南をアメリカが軍政統治することとなります。

その後、アメリカとソ連は朝鮮を一つの政府で統治するために折衝しますが、まったく話し合いが上手く行かず、決裂して1948年8月に、まずアメリカ側が李承晩をトップに据えた政権(大韓民国)を樹立。

これによって朝鮮半島の分断は決定的となり、それに対抗する形で北部では、9月にソ連の影響下で金日成をトップに朝鮮民主主義人民共和国が誕生したのでした。

ですから、早い話が戦後処理のどさくさに紛れ、これ以後激しさを増すことになる、資本主義と共産主義の戦い、いわゆる「冷戦」の火ぶたが朝鮮半島の統治を巡って切って落とされたというわけです。

北朝鮮(及び韓国)とは、そのようにして生まれた国なのでした。

金日成(キムイルソン)とは?

 金日成(Wikipediaより引用)

以上のように、北朝鮮のトップとなった金日成でしたが、党内には熱烈な支持者がいはしたものの、当初はそれほど絶大な支持を得られていたわけではなく、あくまでも共産主義政権のトップとして暫定的に指導者としての立場に就いていただけでした。

朝鮮民主主義人民共和国建国後は、韓国側の激しい反共政策を行ったことから、北部に逃れてきた共産主義勢力と合流して朝鮮労働党を結党し、そのトップとなりますが、金日成と反目する派閥などもあり、決して党内で盤石とはいえない存在でした。

そんな朝鮮労働党政権でしたが、ひとまず党内の権力争いよりも意識は韓国との朝鮮半島の覇権争いに向いており、1950年6月に、朝鮮の統一を掲げて南部に侵攻し、朝鮮戦争が勃発することになります。

その後、激戦の末に両国が疲弊したことから、1953年に休戦調停が結ばれることになります。が、その戦後処理に置いて金日成は、自身と敵対する党内派閥を次々に粛正してゆき、金日成を崇拝する勢力だけを残すことに成功します。

この休戦後の処理によって「最高指導者」の地位を確固たるものとし、自身の子である金正日(キムジョンイル)、孫である金正恩(キムジョンウン)までが代々「将軍様」と呼んであがめられるような体制を確立したわけです。

つまり、金日成とは、そのような朝鮮半島における資本主義勢力との戦乱の時代を生き抜いた英雄という意味で、「将軍」と呼ばれるに至ったというわけです。

広がる韓国と北朝鮮の格差

朝鮮戦争の後、敵対勢力を排除した金日成体制でしたが、戦争の疲弊は激しく、特に目立った産業もないため非常に貧しい状態にあり、社会主義国の支援で何とか凌いでいるといった状態でした。

貧しさは南の韓国も同様で、むしろ北朝鮮よりも悲惨な状態でした。

が、韓国側は1963年に朴正煕大統領が、日本との間で「日韓基本条約」を締結し、過去の清算を行うことで、国家予算の約3倍にのぼる補償金を獲得することに成功します。

これがブレイクスルーとなり、この補償金を資金として経済を立て直した韓国は、以後、北朝鮮よりも豊かになり、その差が現在でも北朝鮮と韓国の経済的な格差に繋がっています。

方や北朝鮮はというと、金日成は自身と対立する派閥を粛正した際に、経済通も一緒に粛正したことから、経済に明るい人材に乏しく、また、金日成一家を「将軍」と呼ぶことからも分かる通り、軍事を第一に考えた方向性を維持しようとします。

また、朝鮮半島の統一を意識して工作活動を続け、工作員を韓国や日本に送るような活動にも着手します。

日本人の拉致事件も、このときの活動によるものです。

そして、冷戦末期になり、世界各地で社会主義経済が崩壊していくなかで、北朝鮮の経済もやはり行き詰まりを見せ、1991年のソ連の崩壊でそれが決定的なものとなり、経済が完全に崩壊してしまいます。

また、冷戦構造が崩壊すると同時に、北朝鮮は孤立無援の状態にも陥ることとなります。

1990年代・金正日体制へ

そんななか、金日成が1994年に死去し、金正日体制となります。

金正日(Wikipediaより引用)

金正日は何をしたのかというと、経済の崩壊をなんとか誤摩化すために、それまで国交が断絶していた西側諸国との国交を回復し、支援を受けようとします。

韓国とも、2000年に金大中大統領と南北首脳会談を開き、南北共同宣言を採択するなど歩み寄りを見せます。

これらの融和政策はそれなりに成功します。

が、それと同時に金正日は、それまでの軍事路線も堅持しました。

そうして資金援助で得られた資金は、貧困にあえぐ人民のために使われず、核兵器の開発を主軸としたの軍事力拡張に使われたのです。

これに猛反発したのがアメリカで、2002年、ブッシュ大統領に「悪の枢軸」と名指しされるに至ります。

ちなみに、日本との関係を巡っても、小泉純一郎首相の訪朝から拉致被害者の帰国と、それなりに関係の回復に乗り出す姿勢は見せました。

が、拉致問題は進展したものの、完全には日本国内世論が納得のいくものでもなく、歴史認識問題でも北朝鮮とは折り合いがつかずに、結局、金正日体制下でも日朝関係が回復するまでには至りませんでした。

そして、2011年に金正日が死去し、金正恩が代わってトップの座につきます。

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金正恩体制のはじまり

金正恩(Wikipediaより引用)

そうして金正恩の時代となったわけですが、金正恩体制は、以上のように父である金正日が進めてきた核兵器開発路線を維持するどころか、さらにそれを強く進める姿勢を見せているわけです。

また、その核兵器開発を、独自の産業として確立する狙いもあると見られています。

つまり、核ミサイルを保有することで国防を強化しようというだけでなく、それらを量産して売ることで儲けようというわけです。

ミサイルの発射は、国際世論への威嚇という意味合いもあるようですが、そのような商品としての核兵器の所有を顧客にアピールする狙いもあると見られます。

ミサイルの直接的な脅威もさることながら、そのようにして世界中に小型化、低価格化された核兵器が広まることも国際社会の脅威となっているわけです。

まとめ

以上を簡単にまとめましょう。

●そもそも北朝鮮とは第二次世界大戦後、冷戦の発端として生まれた国である

●初代トップの金日成は朝鮮戦争後、敵対勢力を排除し最高指導者の地位を確立、軍事色の強い独裁政権を開始する

●二代目の金正日は、冷戦構造崩壊後、国際的には融和路線を取るも軍事路線は堅持したまま核兵器開発に着手、アメリカから睨まれる結果に

●三代目の金正恩は、さらに核兵器開発を進め、軍事産業を北朝鮮独自の産業として確立しようとしている

ということになります。

国家を運営する上で、経済の中心となる産業は不可欠です。

北朝鮮は、以上のような経緯で社会主義体制の崩壊後も独自の産業を持たず、諸外国の支援などに頼らざるを得ませんでした。

そこで、押し進められてきたのが核兵器の開発なのではないかと見られているというわけです。

ちなみに、核兵器開発については、金日成の時代から保有が検討されていたといわれています。

が、武闘派の金日成ですから、これは当然そう考えていて、金正日にその意思が託されたというのは想像に難くないことのようにも思われます。

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