ご存知の通り、第二次世界大戦の一角をなす太平洋戦争、日本と連合国の戦いは、ハワイ・オアフ島のアメリカ海軍真珠湾基地への攻撃によってその火蓋が切って落とされます。
「真珠湾攻撃」「真珠湾奇襲」という言い方をする場合もありますが、その実態はどのようなものだったのでしょうか。
まずは、「真珠湾攻撃」に至る流れから見ていきましょう。
日米開戦までの道
日本とアメリカが戦争をしなければならなかったのは何故か。これは非常に難しい問題となります。ですが、直近の話としては、まずは「ハル・ノート」が重要な意味を持っています。
ハル・ノートという最後通牒
そもそも、太平洋戦争前夜、日米両国は開戦を回避するための交渉を行っていました。長く、そして複雑な経緯があるのですが、ともあれ1941年11月26日、アメリカのコーデル・ハル国務長官が、日本に交渉文書を提示します。
コーデル・ハル(Wikipediaより)
正式な外交文書ではなく覚書であったとか、法的拘束力は持たないとか、様々な側面があるとはいえ、その内容は日本にとって非常に深刻なものでした。簡単に説明しますと、日本は帝国主義列強であることをやめ、大陸から兵を退くべきである、といったような内容です。
日本は姿勢を硬化させ、一方アメリカ側も日本に対する軍事的警戒を強め始めます。
ルーズベルトは真珠湾攻撃を知っていたのか?
話は飛びますが、結果をいえば、日本は真珠湾を攻撃して宣戦布告、ルーズベルト大統領はこれを受け日本に宣戦布告を返すわけですが、これにまつわる、有名な話があります。
「フランクリン・ルーズベルトは、真珠湾が奇襲されることを知っていた」というものです。日本だけではなく、アメリカ国内でも今日なお囁かれている話なのですが、もちろん、これを肯定する明確な証拠はありません。(筆者は知っていたと思います。)
ただ、結果論からいえば、「日本が真珠湾を奇襲したことで、アメリカは連合国側で参戦する大義名分が立った」などのメリットが、ルーズベルトにあったことは確かです。
そしてもう一つは、もし仮にルーズベルトが真珠湾に対する日本の攻撃を知っていたとした場合、それにも関わらず、ルーズベルトは自分が知っていることを太平洋方面海軍の最高司令官にすら知らせておらず、そして少なくともその司令官は真珠湾攻撃など予想だにしていなかった、という事実です。これ以上は、歴史の闇の中の話となります。
宣戦布告文書にサインするルーズベルト(Wikipediaより)
奇襲のはずではなかった―遅れてしまった宣戦布告
真珠湾攻撃は結果としては奇襲でした。宣戦布告が行われる前に攻撃が行われたからです。日本がアメリカ相手に戦端を開くと予測していた当時としては数少ない人々も、その対象はフィリピンになると考えていた例がほとんどで、日本本土から遠い真珠湾が攻撃される、というのはほとんど誰にとっても想像の埒外でした。
ですが、当時の日本の、少なくとも指導部には、奇襲の意図は無かったのです。宣戦布告は、攻撃の直前に行われる予定になっていました。ただ、肝心の外交官のもとに暗号で情報を伝えたことによる時間的ロスや、その他の人為的ミスが重なり、実際には宣戦布告は予定より遅れ、真珠湾攻撃開始から1時間後に行われることとなりました。
ハワイへの航路
前述のように、日本からハワイまではかなりの距離があります。日本から艦隊を送り込むには、10日以上必要でした。
そういうわけで、実は「開戦するかしないか」について本国で議論を続けている間に、とりあえず艦隊だけハワイに向けて送り出した、という裏話があります。
南雲機動部隊の出動
ともあれ、南雲忠一中将率いる艦隊、いわゆる南雲機動部隊が択捉島単冠湾からハワイ目指して出撃したのは、1941年11月26日のことです。ハル・ノートが示されたのと同日ですが、実はハル・ノートよりこちらの方が先でした。結果として、ハル・ノートを受けた日本は御前会議を招集、12月8日の開戦を決定します。
南雲中将(Wikipediaより)
開戦決定―ニイタカヤマノボレ
南雲機動部隊は既に出動して洋上にありましたので、日米開戦の報、および、真珠湾攻撃の密命は、電報によって届けられました。その暗号電文は「ニイタカヤマノボレ1208」。有名な「新高山登れ」の指令です。
ちなみに新高山というのは当時日本領だった台湾にある山で、現地の言葉では玉(ユイ)山と言います。富士山より高い3950メートルの高峰で、機動部隊の草鹿龍之介参謀長は、この電文を受け「晴天に白日を望むような心持ち」になったと伝えられています。
Wikipediaより
真珠湾攻撃
そして1941年12月8日午前3時、現地時間では7日の午前8時、真珠湾に対する日本軍の空襲が開始されました。
トラ・トラ・トラ 実証された「空母」の力
第一波の攻撃隊は183機、淵田美津雄中佐によって率いられ、真珠湾のヒッカム飛行場に爆弾を投下しました。このとき淵田中佐は「トラトラトラ」という電文を発しています。一般には「我奇襲ニ成功セリ」の意味で知られていますが、厳密には誤りで、「全機突撃せよ」という意味の命令を表すものでした。
この戦いには、当時の日本海軍のほぼ総力と言うべき、6隻の航空母艦が参加しています。「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「瑞鶴」「翔鶴」です。
空母の戦略的重要性やその恐ろしさは、今日ではほとんど常識になっていると言えますが、当時の世界情勢下ではそうではありません。いわゆる大艦巨砲主義というものがまだ主流で、海戦の主役は大型の主砲を装備した戦艦であり、空母は補助的な存在に過ぎないとする見解が、連合国側でも主流でした。
しかし日本海軍は、早くから空母の導入に力を入れていました。そして、その空母の力というものが、人類の歴史において初めて真の意味で実証されたのが、この真珠湾攻撃であったといえるのです。
予想だにされなかったハワイ奇襲 米軍に走る驚愕
ところで攻撃を受けた真珠湾のアメリカ軍はどうしていたのでしょうか。彼らは当初、相手が日本軍なのだ、ということにすらなかなか気付きませんでした。ホノルル海軍の士官ラムジー中佐は、攻撃の第一波を目視しましたが、部下に「安全ルールを守っていない機がいる。機体番号を調べろ」と命じました。アメリカ軍機だと思ったのです。こんなところに日本軍の飛行機がいるなどということ自体、想像の埒外でした。
しかしラムジー中佐も、その機が爆弾を投下し、目の前で格納庫が吹き飛ぶに至り、事態を悟ります。そして、無線連絡を命じます。のちに世界の歴史において最も有名な無線文の一つとして知られるに至るその一文は、こういうものでした。「真珠湾空襲、これは演習ではない」。
この報告はまさに電撃的にアメリカ国内を、いや世界を駆け巡ります。フランク・ノックス合衆国海軍長官はこれを聞くや、「そんなことがあり得るか!フィリピンのことではないのか!」と叫んだと言います。
アメリカ側からの反撃は実質的にほとんど行われることがなく、一方日本軍は真珠湾の艦船を次々に沈めていきました。戦死者数で言うと、日本軍9人に対し、アメリカ軍2345人と記録されています。
破滅への伏線―なぜ米空母は居なかった?
真珠湾攻撃の勝利は、日本軍側の期待を大幅に上回るものでした。もっと長居して攻撃を続ければもっと戦果を挙げられた、などの意見もないことはないですが、いずれにせよ大局に影響を及ぼすものではなかったでしょう。
何故ならば、運命の日、真珠湾にはアメリカ海軍の空母が一隻もいなかったからです。
もちろん、真珠湾は非常に重要な基地でしたので、空母がまったく配備されていなかったわけではありません。実際、12月4日までは空母レキシントンが滞在しており、他にも所属の空母が存在しました。
しかし、肝心の攻撃の日には、すべて出払ってしまっていたのです。
空母というのは、この後太平洋戦争を通じて明らかになってくるのですが、海戦における最重要戦略単位です。空母はただの船ではありません。実質的には、動く大要塞、と言うべき存在です。
今の言葉ではハワイなどのような戦略要地の島を俗に「不沈空母」と呼びますが、これは話が逆で、そもそも空港を持った島のようなものが動いて戦うのが空母なのです。
そういうわけで、真珠湾攻撃の戦略目標は、アメリカ海軍の空母を何隻でもいいからとにかく海の藻屑にする、ということにありました。
ここで空母が出払っていたという事実がまた、なにやらアメリカの陰謀論を脳裏にちらつかせます。
ともあれ、その計画はもろくも崩れました。
こうして、一見華々しい大勝利の陰で、のちのミッドウェーでの大敗北へと至る、重大な伏線が敷かれてしまうことになったのです。