韓国と日本の関係はなぜこうなった? 経緯をわかりやすく解説

このページでは日韓関係が現在のようなことになった経緯を年表形式で見て行きます。

朝鮮半島の歴代統一王朝と日本

朝鮮半島に興った歴代統一王朝は、その地理的な条件から、中国王朝の属国として過酷な搾取に苦しんでいました。

1392年に興った李氏朝鮮はその後、約500年間続きましたが、前半は明国に、1636年からは清国に服属しました。

その影響で朝鮮半島では事大主義がはびこることになります。

事大主義とは、自主独立を重んじるのではなく、巨大な勢力に付き従うことを良しとする考え方をいいます。

その影響から、中華王朝を「文明国」として絶対視し、それに従わない国は「野蛮国」として見下し、自国を正当化するだけでなく他国や他民族を蔑視していました。

日本は、7世紀にはすでに中国王朝の影響下になく、完全な独立国家、独立民族として自存していました。

李氏朝鮮では、そんな中華王朝に服属しない日本に対しては、嫉妬を抱くと同時に「野蛮国」として侮蔑するという複雑な感情を抱いていました。

さらに李氏朝鮮では、他者との上下関係を極度に重んじる儒教を国教としていたことから、さらに日本を蔑んでおり、その李王朝500年が、現代の朝鮮半島の人々の、日本に対する屈折した見方を決定付けたといわれています。

また、1592年(文禄の役)と1598年(慶長の役)の2回に渡り、当時の豊臣秀吉によって朝鮮への出兵が行われたことで、日本に対して被害者意識も持っていました。

以下に、李氏朝鮮時代における朝鮮半島の人々の日本人に対する態度をご紹介しましょう。

呉善花著『反日・愛国の由来』PHP新書
〜第三章 小中華思想と日本を見下す侮日感〜 より引用

(前略)一七一九年(享保四)、日本を訪れた第八回朝鮮通信使一行の製述官(文人官僚)申維翰(シンユハン)は同行した日本側の接待役、対馬藩士 雨森芳洲が自分に向かって次のようにいったと記している。

「日本と貴国は、海を隔てて隣国であり、信義相変らず。……しかし、ひそかに貴国人の撰する文集を見るに、その中で言葉が敝邦(日本)に及ぶところは必ず、倭賊、蛮酋と称し、醜蔑狼藉、言うに忍びないものがある。……こんにち諸侯たちは、この意を知るや否や」
「今でさえ諸従者(通信使一行の者たち)は、敝邦(日本)の人を呼んで必ず倭人という。また望むところにあらず」(申維翰『海游録』姜在彦訳/東洋文庫・平凡社)

これに対して申維翰は、「それは壬申の乱(豊臣秀吉の朝鮮侵略)以降に書かれた文章だろう」といい、「秀吉はわが国の通天のかたきであり、わが国の臣民ならば、その肉を切り刻んで食おうと思わない者はいない」と応じている。

申維翰の主張は、「豊臣秀吉が朝鮮を侵略したから日本人を蔑称してよい」というものだ。実に情けない屁理屈を述べたものだが、しかも「壬申の乱以降」というのはまったくの嘘なのである。

朝鮮半島に成立した諸国では、日本に対する正式な国書を別として、古代以来一貫して日本のことを蔑んで「倭」あるいは「倭国」と書き習わし、「倭賊」とか「蛮夷」とか、さらに侮蔑的な表現を用いることが一般的に行われていた。(中略)

この雨森芳洲と申維翰のやりとりはほとんど現代にも通じるものだ。

このように、1719年当時の朝鮮の人々も、ほとんど現代の韓国人と変わらない態度で日本人に接していたようです。
ちなみに、豊臣秀吉の朝鮮出兵について非常に恨んでいることがわかりますが、過去には日本よりもはるかに多い頻度で歴代中国王朝に侵攻を許し、甚大な被害を出しています。
が、今も昔も、朝鮮の人々はけっしてそのような、日本に対しては剥き出しにする被害者意識を、中国に対してはまったく向ません。
つまり、それが上述の事大主義の名残なのです。
こういった彼らの日本に対する基本姿勢は昔も変わらなかったということは、日韓関係の歴史を見ていく上で重要な前提知識と言えます。

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1910〜1945年・韓国併合(日韓併合)

1800年代(19世紀)の終わり頃、日本と朝鮮はほぼ同時に欧米列強の侵略の危機に直面しました。

日本は明治維新を経ていち早く近代化し、挙国体制で国土を欧米からの侵略に備えました。その当時、喫緊の脅威として迫っていたのが、すでに朝鮮半島のすぐ北まで侵攻していたロシア帝国でした。

朝鮮半島が簡単にロシアに侵略されてしまうと、あっという間にロシアに日本列島を脅かされかねなかったため、日本はまず朝鮮にも近代化を迫りました。つまり、近代化して同盟を結び、ロシアを撃退するよう要請したわけです。

が、上述のように、そもそも日本を蔑視していた朝鮮では、近代化した日本をさらにそのことで見下しており、日本からの要請を拒否し続け、さらには天皇を清の皇帝と比較して馬鹿にするまでに至ります。

そこで日本では征韓論が優勢となり、そんな朝鮮を背後で操る宗主国・清と朝鮮半島への影響力を争って日清戦争が勃発します。(1894〜95年)

その戦争に日本が勝利することで当時の清の属国であった李氏朝鮮は、大韓帝国と国号を改め、属国ではなく晴れて独立国となります。また、これによって朝鮮の国王は、それまで「王」から「皇帝」を名乗ることが許され、清の皇帝と肩を並べる地位となりました。

しかし、大韓帝国にはそもそも自力で近代化など成し遂げる力はありませんでした。

そこで1910年、正式に「韓国併合ニ関スル条約」に調印し、日本が併合するに至りました。

軍事的な衝突の末に併合したのではなく、あくまでも韓国と合意の上で行われたのです。

日本が韓国を併合した目的は、ロシアから自国を守るためであり、そのために朝鮮半島を近代化させるためでした。

これより日本は朝鮮半島のインフラ整備から軍備の増強まで、莫大な資金をつぎ込んで朝鮮半島を近代化させ、第二次世界大戦終結の1945年までの35年間、日本の領土としました。

現在では、この時代に何が行われたのか、という事実関係を巡って、また、謝罪と賠償のあり方を巡って、日韓関係がぎくしゃくするに至っています。

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1950年・朝鮮戦争とその後の冷戦構造

1945年8月に日本が第二次世界大戦に敗北したあとの朝鮮半島は、終戦間際になって日本に宣戦布告したソ連が突然軍を南下させ、北緯38度線以北の領有を主張したことから、それより北が共産主義の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に、南側がアメリカの息のかかった資本主義国の大韓民国(韓国)ということになりました。(それぞれソ連、米国の占領期間を経て1948年に建国)

が、1950年に北朝鮮軍が38度線を超えて、軍事力で南北を統一しようとして朝鮮戦争が勃発します。

このとき完全にアメリカの占領下であった日本は、当然、資本主義陣営の一員として、直接戦闘行為には参加はしなかったものの、韓国とは自動的に同盟国の立場におかれました。

その後、朝鮮戦争は、大きな被害をもたらして1953年に休戦することとなります。

日本はこの戦争に直接参戦したわけではないため、ほとんど戦後を通じた日韓関係にはなんの影響も与えていないかに思えるかもしれませんが、全くそうではありません。

次の章で解説しますが、実は、韓国はこの朝鮮戦争の真っ最中に、一応の同盟国であった日本の領土・竹島を不法占拠するという暴挙に出ているのです。

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1952年・韓国による竹島侵略

1952年、朝鮮戦争の真っ只中だった1月に、突如として韓国軍が島根県の竹島を不法占拠しました。

この判断を下した当時の大統領、李承晩は、極度の反日意識を持った大統領で、北朝鮮との間で戦争をしながらも、対日戦争を企てるほどの人物でした。

ちなみに、当時の日本は武装解除されていて軍隊がなく、自衛隊もまだ創設されていませんでした。

この韓国の暴挙によってアメリカも、当初は憲法9条により日本を武装解除したままにしておきたかったのですが、このような敵意を持った国が隣国にあるという現実を突きつけられたことから、日本が準軍隊である自衛隊を、憲法解釈を捻じ曲げることで創設することにも目をつぶったのでした。

また、日本にとって、この竹島の不法占拠は、韓国という国が上述のような潜在的な敵国であるにもかかわらず、日米韓の連携が冷戦構造の要でもあったことから、韓国の言動にはひたすら我慢しなければならなかったことを表す、代表的な例であると言えます。

つまり、冷戦構造下での日本は、竹島を武力で取り返したり、この問題をことさら大きな問題として両国間の対立を深めることを、冷戦構造のパワーバランスを崩したくないアメリカにさせてもらえず、ただひたすら我慢しなければならない立場に置かれ続けたわけなのです。

それはこの竹島問題に限ったことではなく、冷戦構造の下では、あらゆる局面で日本は韓国の言動に対して忍耐を強いられてきたのです。

ちなみに、不法占拠以後、韓国では、竹島を「独島」と呼び習わし、日本に対する対抗意識の象徴としてきました。

日本は度々、この問題を国際司法裁判所に委ねて解決するよう韓国に提案していますが、韓国は不利と見て応じていません。

この問題も日韓関係の改善を妨げる大きな要因となっています。

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1965年・「日韓基本条約」の締結と「漢江の奇跡」

南北両国に甚大な被害をもたらして1953年に朝鮮戦争が休戦となった後の韓国は、何もかもが壊滅的な状況で、主要な産業もない世界の最貧国でした。

そんななか、1963年に軍事クーデターから大統領に就任した朴正煕は、荒廃した社会の状況を立て直すため、日本との併合時代の清算に本腰を入れて乗り出し、その賠償金で経済を立て直そうとしました。

そして、1965年「日韓基本条約」を締結。

日韓基本条約の付随協定である「日韓請求権協定」第二条により、両国は請求権問題の完全かつ最終的な解決」がなされたことを確認し、併合時代が完全に精算されました。

また、日本は、有償または無償で合計11億ドルの補償を行っています。

当時の韓国の国家予算が年間3.5億ドルでしたから、この金額はその約3倍に相当します。

そして、韓国は、この補償金を使って、製鉄所や火力発電所、ダム、高速道路などのインフラ整備を進め、さらに財閥を支援して主要な産業を育成し、「漢江の奇跡」とよばれる高度成長を遂げました。

また、一連の「日韓基本条約」の中には、「日韓漁業協定」という付随しており、これによって竹島をめぐる領土問題は棚上げされることとなりました。

この日韓基本条約によって、韓国との間では国交が正常化し、過去は「完全かつ最終的に解決」を見たわけです。

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1991年・慰安婦問題が発生

1965年に日韓基本条約締結してから1990年頃までは、反日的な教育や、竹島の不法占拠は続いていたとはいえ、戦後補償がひと段落したこともあって日韓関係はわりと穏やかでした。

が、1991年になり、日本国内のメディア紙面に「従軍慰安婦」なる造語が躍るようになって一変します。

この年、日本の左派の招きによって戦時中に元慰安婦だった韓国人女性が来日します。

彼女らの主張は、当初、「慰安婦時代の未払い賃金の支払い」を求めるものでしたが、朝日新聞がこれを「従軍慰安婦として強制連行されたことへの訴え」に論点をすり替えて報道。

その後、なぜか元慰安婦女性らの要求も、その報道に合わせた形で「強制連行」に対する謝罪と賠償へとすり変わることになります。

また、吉田清治という人物の著作(のちに吉田本人がフィクションであったことを認めている)をあたかも事実であるかのように朝日新聞がたびたび報道したことで、日韓関係に大きな火種を残しました。

(朝日新聞は、2014年になってようやく、この頃に行われた数々の報道が誤報であったことを認め、謝罪しています。)

以後、国内メディアがこぞって「従軍慰安婦の強制連行問題」として報じたことで、ついに両国政府が両国間の問題として扱うに至ります。

朝日新聞は何をした?慰安婦問題の経緯をさらにわかりやすく解説

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1993年・日本政府、河野談話を発表

以上のような経緯で日韓関係が悪化する中、当時の宮沢内閣の官房長官であった河野洋平により、「従軍慰安婦問題」への談話が発表となり、「慰安婦の強制連行に日本軍が関与していた」とする韓国側の主張を認め、日本政府として「心からのおわびと反省の気持ち」を表明しました。

これにより、正式に日本側が認めたため、韓国側からのロビー活動が活発化し、国連でも議論されるようになります。

ちなみに、この河野談話は、最大の争点である「強制連行の有無」についての事実確認は、たった3ヶ月間の元慰安婦女性への聞き取り調査しかしておらず、その証言以外なんの物的証拠もないままの謝罪だったことがのちに判明しています。

そして、これ以後日韓両国で、争点であった「強制連行」の有無を裏付ける物的証拠を探して研究が進められましたが、一向に証拠が出て来きませんでした。

そうこうするうちに、徐々に争点が「強制連行の有無」ではなく、「慰安婦制度の存在そのものがそもそも女性の人権問題である」という論点に移行し始め、「性奴隷」なる言葉まで登場して日本に非難が集まるに至ります。

また、河野談話で認めてしまった「強制連行」について、本来その談話を発表する以前に行われなければならなかった調査が行われ、日本政府が「強制連行を裏付ける資料がなかった」ことについて国会で答弁をし、また、調査に基づく閣僚の発言や閣議決定等のたびに日韓関係がぎくしゃくすることにもなりました。

河野談話とは【全文あり】わかりやすく解説

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2002年・W杯日韓共催を契機に日本で「嫌韓」がブームに

2002年以前の日本人の韓国に対する感情は、別段悪いものではありませんでした。

日本人による韓国批判は、ほとんど北朝鮮と裏で通じた左派が北朝鮮を擁護する場合に行われるだけでした。

が、サッカーW杯を日本と韓国が共催して以後、「嫌韓」という言葉が流行するほど、一般人の間で韓国に対して反感を持つ層が増え始めます。

これは、それまでよく知らなかった、韓国人の上述のような日本人に対する悪感情を、日本人が戦後初めて目の当たりにしてしまったことによるものです。

具体的には、韓国国民の、日本代表チームの敗北を喜ぶ憎悪表現や、韓国代表のラフプレー、審判による不自然な韓国に都合のよい誤審問題などがそれにあたります。

また、この時期からインターネットが徐々に普及し始めたことで、そんな韓国人の日本人に対する感情をテレビや新聞が伝えてこなかったという事実に対しても反感が巻き起こり、反メディア熱も日本国内で加熱し始めることになりました。

もちろんそれらの情報には事実もあれば虚偽もあったため、ここで日本人が真実に目覚めたとまで言えるかどうかは疑問です。が、それまでの韓国に対する日本人の感情の潮目が、この年以後、大きく変わったことは事実と言えます。

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2008年・日韓通貨スワップ協定締結で韓国側が暴言

2007年に発生した世界不況のあおりを受けて、韓国ではウォン安が止まらず、その状況を他国の支援で乗り切ろうと韓国側のロビー活動により米国、中国、日本が通貨スワップ協定を結んでなんとか通貨危機をしのぎました。

日本は同年12月に300億ドルの通貨スワップ協定を結んで韓国を支援しました。

が、韓国は日本に感謝するどころか、協定を結んだ順番が米国(10月)中国(12月)に次いで3番目であったことから、「韓国が最も厳しい時に外貨を融通してくれたのは、アメリカ、中国、日本の中で日本が最後だ。日本は出し惜しみをしている気がする。アジア諸国が日本にふがいなさを感じるゆえんである」などと韓国高官が発言し日本側の怒りを買いました。

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2011年・韓国ソウルに慰安婦像が設置される

1991年に慰安婦問題が発生し、93年にろくに事実関係がわからないまま謝罪を行ってしまったの河野談話のために、韓国側からの追及が強まっていましたが、とうとう2011年になって韓国ソウルの日本大使館前の公道に「慰安婦像」が設置されます。

その後、世界中の韓国系住民により世界各国の公園や韓国人協会前などに、同様の慰安婦像の設置が進められることになります。

日本政府はその度に抗議を行い、公道などの公的スペースに設置されたものについてはその国の政府が動いて撤去されるケースもありますが、撤去されないケースの方が多いというのが実情となっています。

また、現地の日本人のよる、撤去を求める訴訟などの運動も行われるに至っています。

【主な慰安婦像設置の経緯】
●2013年/米国カルフォルニア州グレンデール市の公園
●2015年/カナダ トロントの韓国人協会前
●2016年/オーストラリア シドニー近郊の韓国人協会前、中国上海の上海師範大学
●2017年/米国ジョージア州ブルックヘブン市の公園、米国サンフランシスコ州、ドイツバイエルン州の公園

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2012年・李明博大統領が日本を挑発する言動を連発

2012年8月10日、長年不法占拠が続いていた島根県竹島に、韓国大統領で初めて李明博が上陸しました。

また、4日後の14日には、過去の植民地支配について天皇に謝罪を求めると発言。

これらの一連の言動は、7月に自身の実兄が斡旋収賄容疑で逮捕されており、政権批判が強まっていたため、派手なパフォーマンスを行うことで国民の意識をそらす意図で行われたものでした。

日本国内では、過去最高と言ってもいいほど韓国への反感が高まり、日韓首脳会談が開かれないという事態を迎えました。

これ以後、韓国大統領により、自身の不正や失政から国民の意識を逸らす目的で、日本人の心情を無視したような露骨な「反日パフォーマンス」をする傾向が強まりました。

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2013年・朴槿恵大統領が「日本を1000年恨む」と発言

2013年3月1日、朴槿恵大統領が日韓関係について「加害者と被害者という歴史的立場は、1000年の歴史が流れても変わることはない」と発言、韓国では「千年恨」という言葉が流行しました。

朴槿恵大統領は、大統領就任以前は親日的な側面の強い政治家でした。

が、それが自身の政権運営に支障をきたすことを恐れ、上記の発言に代表されるような反日的な発言を繰り返し行って、国内に自身が「親日ではない」とアピールしました。

つまり、自身のイメージ戦略に日本を利用し、政権を維持しようとしたのです。

これもやはり国内の反日感情を政治利用した李明博大統領と同種の手法だったと言えます。

また、この大統領は、「告げ口外交」と呼ばれる外交を行い、欧米諸国を自ら訪れて、その国と韓国との関係に直接関係ない日本バッシングを展開し、自国を支持してもらうように説く手法を用いて日韓関係を大いに冷え込ませました。

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2015年・慰安婦日韓合意

90年代初頭から日韓関係の火種としてくすぶり続けていた慰安婦問題でしたが、2000年代に入ってからは両国政府が必死に決定的な証拠を探すも出て来ず、小康状態が続いていました。

そこで2015年12月28日に当時の外相同士が会談し、慰安婦問題の「最終的かつ不可逆的な解決を確認」しました。

当時の岸田外相は「心からおわびと反省の気持ちを表明する」と謝罪を行いました。

また、この合意によって「和解・癒やし財団」が設けられその財団に対して日本政府が10億円を支払い、元慰安婦への支援を行いました。

この合意には日韓両国において、「ともかくこれで日韓関係が前進する」という肯定的な意見もあれば、まったく評価しないという否定的な意見も出て、賛否両論巻き起こりました。

また、この合意には、日韓関係の悪化を懸念した米国の仲介もありました。

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2016年・釜山に慰安婦像設置

日韓合意のちょうど一年後の2016年12月28日、慰安婦問題を終わらせたくない民間組織により、韓国釜山の日本総領事館前の公道に慰安婦像が設置されます。

無許可の設置だったことから一時撤去されますが、市民からの圧力により再度設置されるに至り、日本政府は「韓国は合意を守るように」と強く反発。

しかし、韓国政府は「民間が行ったこと」として何の対処もしませんでした。

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【重要】北朝鮮の核開発問題と日韓関係

北朝鮮では2011年に金正恩が最高指導者の座についてから、核ミサイル開発を活発に行うようになり、国連の制止も無視して核実験やミサイル発射、アメリカへの挑発を執拗に繰り返すようになりました。

これに対し、日米韓の3国はたびたび連携して北朝鮮に圧力をかけようとしましたが、2017年に就任した文在寅大統領が米国の意向を無視して北朝鮮に接近し、連携を乱す動きを見せるようになります。

これによって米国政府も韓国に不信感を抱くようになって行きます。

冷戦終結後も、北朝鮮と韓国は朝鮮戦争を休戦している状態で、北朝鮮の背後には中国とロシアが、韓国の背後には米国、日本をはじめとする西側諸国が影響力を持っていたわけですが、2010年代も後半に差し掛かって、韓国の身勝手な行動によりこの構造が確たるものとは言えない状況となりました。

上述のように、これまで日本は韓国に対しては併合時代の謝罪や賠償を行ってきましたが、北朝鮮にはまったくそれらを行ってきませんでした。(併合時代は南北が分断しておらず、北朝鮮もまた日本に併合されていました)

つまり、日本が韓国に謝罪と賠償を行なったのも、韓国側にどんなに無礼を働かれようと日本は耐え忍ぶしかなかったのも、ひとえに、両国が西側諸国の一員だったからなのです。

米国を含めた3国の連携を乱すことが、米国との同盟を重視していきたい立場上、できなかったからだともいえるでしょう。

この力関係が、文政権が、北朝鮮へ歩み寄り、米国の意向を無視するようになって大きく変わりました。

つまり、日本はもうそれらを気にすることなく、韓国に対して「NO」を突きつけられる立場になってきたということです。

この状況の変化が、これ以後、日韓関係に大きな変化をもたらすことになります。

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2018年・韓国が慰安婦合意を事実上破棄

慰安婦合意の後、慰安婦問題を終わらせたくない国民の反発に押されて対応に苦慮していた朴槿恵政権でしたが、その後、大統領が、韓国「市民」の代表的な存在である文在寅に変わると、日本の間で交わした合意を露骨に無視するようになります。

しかし、合意内容が「不可逆的な解決」であったことから追加措置等の再交渉もできず、かといって国際的な約束を破棄することも明言もできないまま、2018年、合意の要として存在していた「和解・癒やし財団」の解散を一方的に決定。

これで事実上、合意の破棄が決定的になりました。

これには日本政府も強く反発しましたが、日本国内ではこれに前後して「韓国との国交断絶」を望む声までが上がりはじめます。

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2018年・韓国大法院による「徴用工」訴訟判決

韓国が日本に併合されていた第二次世界大戦中に、戦時徴用工として動員されていた人々(元徴用工)が、当時働いていた日本企業を相手に訴訟を行い、補償を求める訴訟が度々行われていましたが、2018年にとうとう韓国大法院(最高裁)が日本企業への賠償を命じました。

しかし、この問題はそもそも1965年の日韓基本条約締結時の「日韓請求権協定」で解決済みであり、日本から韓国政府へ補償金が支払われているものです。

ですから、その補償は韓国政府からなされるべきものだということです。

また、この大法院の判決では、「日本はまだ謝罪も賠償も行なっていない」という驚くべき立場でなされたことから、日本政府は韓国側は国際法違反であるとして猛烈に反発し、韓国政府に是正を促しましたが韓国政府はなんの対応もしませんでした。

その後、2019年になり、日本企業の資産が差し押さえになりました。

韓国側のこの一連の態度は、日本と韓国が戦後長きに渡り、両国関係の礎としてきた日韓基本条約を一方的に踏みにじる行為であったため、ここに至ってほぼ日韓関係は破綻しました。

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2018年・韓国軍が自衛隊機にレーダー照射

2018年12月20日、日本海上で海上自衛隊の哨戒機が任務中に韓国海軍の駆逐艦に火器管制レーダーを照射されました。

日本政府は抗議するとともに、事実関係を認めない韓国および、国際社会に対して、その自衛隊機から撮影したレーダー照射時の動画を公開しました。

が、韓国側は一切非を認めず、それどころか「日本の哨戒機が低空飛行で威嚇した」と居直るような態度で反論し、逆に謝罪を求める事態に発展し、結局平行線のままただ日韓関係がさらに悪化し、日本の不信感を増す結果となりました。

2019年・日本が対韓国輸出管理を強化

前年から続いた韓国政府による一連の行為を受けて、日本側では2018年末より、これまでのような一定の信頼を持って関係を続けることが不可能との見方がされるようになりました。

そこで政府は、2019年7月に、主に半導体産業で使われる軍事転用可能な戦略物資3品目について、それまで韓国を信用して無制限に輸出していた方針を転換し、今後は厳密な審査を行うことを発表。

この戦略物資3品目は、文政権になってから突然輸出量が増えており、その理由を尋ねても韓国政府から明確な回答が得られない状況が数年続いていました。

つまり、文政権がどこかの第三国に軍事転用可能な物資を横流ししているのではないかという疑いが強まっていたのです。

韓国政府はこの措置に対し、「徴用工判決問題への報復措置だ」と反発します。

が、日本は翌8月、さらに同様の「信頼関係が損なわれたこと」と「輸出管理の強化」を理由に、輸出最優遇国である「ホワイト国」のリストから韓国を除外することについて決定します。これによって、あらゆる物資の輸出が以前より厳格になされるようになりました。

また、この日本の対処は、戦後を通して上記のように、韓国から非常に無礼で、非友好的な態度をとられても、様々な理由で、ひたすら我慢してきた日本側からはじめて行われた強い「NO」の意思表示でした。

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2019年・韓国がGSOMIAを破棄

その後、韓国側から報復措置として、政府からは、韓国側のホワイト国からも日本を除外するなどの幼稚な措置が取られ、民間では日本製品の不買運動が大々的に行われました。

そして、8月23日、対北朝鮮戦略の一環で軍事的情報を共有することを目的としたGSOMIA(ジーソミア・軍事情報包括保護協定)を韓国が一方的に破棄を決定。

これには、日米韓の連携を著しく毀損するものとして、米国側も「失望」を表明するに至ります。

これによって、いっそう韓国は日米韓の連携をないがしろにし、北朝鮮側に歩み寄ることになりました。

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