このページでは、韓国はなぜ反日なのかについて詳しく解説しています。
日本では一般的に、韓国人が「反日」なのは、日本が過去に朝鮮半島を「植民地」にしていたから(1910年の韓国併合)だと思われています。
たしかに、彼らは事あるごとに、「植民地」時代の謝罪と賠償に触れ、憤りをあらわにします。
が、では、その時代の「植民地支配」がなければ、彼らはまったく日本に対して友好的な存在だったのでしょうか?
まずはそのあたりをとっかかりに話を進めましょう。
韓国人はそもそもなぜ反日なのか?
まず、結論から言いますと、朝鮮半島の人々は、日本によって併合されるだいぶ前から日本に対して歪んだ悪感情を抱いていました。
韓国併合は、日韓関係に多大な影響を与えた出来事であったとはいえ、歴史的に見て韓国は日本に併合されたために反日国家になったとはいえないのです。
その事実関係について、歴史を遡って見てみましょう。
そもそも、歴代の朝鮮王朝は、地理的な条件からそのほとんどが中国の王朝の属国に甘んじるしかなく、韓国併合前の李氏朝鮮は、自らを「小中華」と称するほど事大主義に支配されていました。
事大主義とは、強大な国家に仕えること(強大な国の属国に甘んじること)を良しとする卑屈な考え方をいいます。
中国の歴代王朝は、その独善的な中華思想に基づいて周辺国を属国とみなし、定期的に朝貢(貢物を献上すること)を行わせ、主従関係を結んで搾取する冊封体制と呼ばれる支配システムを構築していました。
朝鮮の人々はその体制下で、自らを「小中華」と称して、文明の中心である中国王朝を世界で最も優秀な存在として絶対視し、その属国である自国は、その偉大な中華文明の属国というだけで優れた存在であるものと無理に肯定的に捉えていたわけです。
そしてその反面で、そんな偉大な中華文明に従わない国のことを、下等で野蛮な国であるとして蔑視し、見下していました。
さらに朝鮮半島では、他者との上下関係を重んじる儒教の強い影響から、他国が文明国であるか野蛮国であるかということに過敏だったこともこの傾向に拍車をかけました。
そのため、早くから中国王朝への朝貢を拒否して冊封体制に組み込まれず、独立を保っていた日本は、最も近い隣国ということもあって蔑視の対象の最たるものだったわけです。
とはいえ、当然のことながら、どの国でも本心では、日本のように朝貢などせずに独立していたいと望んでいるものです。
李氏朝鮮時代には、宗主国・清から派遣された使者に対しては、「三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとうのれい)」という、王自ら使者の前に跪いて頭を地面に9回叩きつけるという最も屈辱的な礼式で迎えなければならなかったほどでした。
つまり、当時の朝鮮では、事大主義によってそんな屈辱を無理やり肯定せざるを得なかったのです。
そのため、朝鮮の人々は日本という独立した隣国に対しては、小中華思想からくる侮蔑と同時に、嫉妬も抱くという、非常に屈折した感情を抱いていたのです。
併合前の韓国人の日本人への態度
そして朝鮮の人々は1910年に、そのように昔から侮蔑と嫉妬の対象であり続けた日本によって併合されたわけです。
たしかに、朝鮮の人々にとっては、それは非常に屈辱的な出来事だったでしょう。
その意味でも、韓国併合が日韓関係に最も影響を与えた出来事だとはいえます。
以上を踏まえると、「もしも「植民地支配」がなかったとしたら韓国人はもっと日本に友好的だったのか?」という疑問の答えも見えてくるというものです。
これについて、もっとわかりやすい例がありますので、以下に引用して見たいと思います。
呉善花著『反日・愛国の由来』PHP新書
〜第三章 小中華思想と日本を見下す侮日感〜 より引用(前略)一七一九年(享保四)、日本を訪れた第八回朝鮮通信使一行の製述官(文人官僚)申維翰(シンユハン)は同行した日本側の接待役、対馬藩士 雨森芳洲が自分に向かって次のようにいったと記している。
「日本と貴国は、海を隔てて隣国であり、信義相変らず。……しかし、ひそかに貴国人の撰する文集を見るに、その中で言葉が敝邦(日本)に及ぶところは必ず、倭賊、蛮酋と称し、醜蔑狼藉、言うに忍びないものがある。……こんにち諸侯たちは、この意を知るや否や」
「今でさえ諸従者(通信使一行の者たち)は、敝邦(日本)の人を呼んで必ず倭人という。また望むところにあらず」(申維翰『海游録』姜在彦訳/東洋文庫・平凡社)これに対して申維翰は、「それは壬申の乱(豊臣秀吉の朝鮮侵略)以降に書かれた文章だろう」といい、「秀吉はわが国の通天のかたきであり、わが国の臣民ならば、その肉を切り刻んで食おうと思わない者はいない」と応じている。
申維翰の主張は、「豊臣秀吉が朝鮮を侵略したから日本人を蔑称してよい」というものだ。実に情けない屁理屈を述べたものだが、しかも「壬申の乱以降」というのはまったくの嘘なのである。
朝鮮半島に成立した諸国では、日本に対する正式な国書を別として、古代以来一貫して日本のことを蔑んで「倭」あるいは「倭国」と書き習わし、「倭賊」とか「蛮夷」とか、さらに侮蔑的な表現を用いることが一般的に行われていた。(中略)
この雨森芳洲と申維翰のやりとりはほとんど現代にも通じるものだ。
このように、日本が韓国を併合するおよそ200年前から、彼らの日本人に対する態度は現代とほとんど変わらないものだったのです。
この通信使の一方的な、「自分たちは被害者だから日本をどんな蔑称で呼んでも許される」という態度は、現代の韓国人のそれそのものではないでしょうか。
つまり、現代の彼らの日本に対する態度は、韓国併合のはるか前からの彼ら特有のものなので、仮に韓国併合がなかったとしても、基本的に現代と大差なかったことは間違いなさそうなのです。
韓国併合がなければ彼らが日本に対して友好的だったかどうかは、これでほとんど察しがつくというものです。
彼らは日本に何を望むのか?
以上のように、彼らは、韓国併合という事実があろうとなかろうと、もっと深いところで一方的に日本を恨んでいるようなのです。
以上の引用に、「豊臣秀吉の侵略」という文言が出てきましたが、著者の呉善花さんは、それよりも前から朝鮮半島では日本を一方的に蔑視していたと書いています。
だとすれば、戦後日本が行なった謝罪と賠償が、彼らの日本人観の改善になどまったく貢献していなくても、また、過去の公式な約束(日韓基本条約や慰安婦合意)などまったくなかったかのような身勝手な態度で居直り、繰り返し謝罪と賠償を要求するのも肯ける話ではないでしょうか?
なぜなら、そもそも日本に謝罪や賠償を求めるのは、彼らが日本に対して一方的に抱いている歪んだ感情と被害者意識ゆえであり、戦後補償の問題を解決して日本と友好関係を築きたいという建設的な意向ゆえではまったくないからです。
もしくは彼らにとっての友好は、その一方的な日本に対する感情と被害者意識とが常に満たされて、優越感に浸れる状況のことでしかないともいえるでしょう。
つまり、彼らは歴史的に「反日」であり、彼らはその反日感情から沸き起こる欲求を満たすために「植民地支配」という言葉を持ち出して、「被害者と加害者」の関係を維持し、優越感に浸りたいのであって、日本が諸外国とのあいだで結んでいるような通常の友好関係などではまったくないのではないかと思われます。
この前提知識があるのとないのでは、これから韓国とどう距離を取るべきかという判断や、どこまで謝罪や賠償を行うべきかという認識が大きく変わってくるのではないでしょうか。
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